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「チームバチスタの崩壊」

 先日、小説「チームバチスタの崩壊」(受賞時タイトル、出版にあたり崩壊→栄光に変更された)を読了しました

 わたしが、最初にこの作品に触れたのはコミック喫茶でした。
 コミック化された同作(全一巻)が「話題書のコーナー」に置かれていたので、それを読んだのです。



 もう、かなり前のことです。

 それ以前に、書評で、原作が不定愁訴外来の講師が調査をする医療ミステリの雰囲気を持つ前半パートと、厚生労働省の役人白鳥が登場して一気に劇画化する後半パート(文庫では、その部分で上下二冊に分冊されているはず)に別れていて、「このミステリーがすごい」大賞を受賞するだけのことはある、というのも目にしていました。

 次に、友人に頼まれて録っていたテレビ・ドラマ版を観ました。
 最終回が終わるのを待って、年末イッキ観したのです。

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 テレビ・ドラマ版に関しては、たしか最終回のひとつ前だった思いますが、某新聞系サイトで、ひどくけなされているのを読みました。

 評者は、一話のほとんどを会議室の会話に終始し、仲村トオル演じる白鳥がキレまくり、無意味なバラの予告が行われたことに立腹していたのです。

 確かに、視聴者の多くが女性であることも考えてか、脚本家に女性を配して書かれた脚本は「Dr.コトー」もかくやというほど、なみだ、ナミダのオンパレードでした。

 しかし、わたしは、なんとか整合をつけてよく書ききったと思っています。

 だいたい、原作とも映画とも違う犯人を、脚本の段階でイキナリ作り出せというのが無理なのです。
 詳細を調べていないので、原作者の海堂尊(かいどうたける)氏が絡んでいるかどうかは知らないのですが……

 ただ、最後の殺害方法は、残念ながらお粗末過ぎました。

 万年講師が、吊り上げた心臓を、メスが入る瞬間に少し持ち上げる?

 プロフェッショナルなら、術野がビデオ録りされていることは知っているはずですから、通常あり得ない行為です。

 しかも、アメリカで心臓移植した自分の娘を術死させたのではないかと、疑った挙げ句、それが目の異常によるものかどうか試すために手術中の患者を使って確かめるなんてあんまりです。

 前後の彼の言動から考えて、そういった突発的な異常行動に出ることは考えにくい。

 まして、彼の娘は術中死ではなく、拒絶反応による予後不良によって死んだのですから、素人でも、恨むべきは内科医であることは自明です。

 彼は医者なのですから、この点でもあり得ない。

 疑問を持てば、いくらでも他に検証する方法はあったはずなのですから。

 最近のライトノベルやその亜流のように、ジェットコースター展開のみを追いかけるハナシなら、登場人物がその性格を豹変させることはあり得ます。

 しかし、それではストーリーのしっかりした土台、モーメントの中心が失われライト過ぎるハナシになって、重みと深みが失われてしまいます。

「あービックリした。でも、ありえねーよな」ですね。

 録画され、ビデオ販売はあるものの、基本的に繰り返し観られないテレビには、常にそういった、大量生産・大量消費、タレ流しの「なしくずし」展開に陥る危険性があります。

 
 文芸評論家の川村湊氏がかつて書いた、「『物語の起伏』だけが身上のような物語を延々と展開する若手作家たちに『作家』としての苦行を見ているようで、痛ましく思える」という言葉を思い出します。

 ストーリーに起伏を持たせるために、手術室に置かれたバラというのもキツい。
 原作でも言及されていましたが、どんなに小さなものでも、何か異物がオペルームに入るということは、部屋に雑菌が増えるということです。

 ワケの分からない異物を患者のすぐそばに置くなんて考えられない。

 テレビだからいいんじゃない?という甘えがミエミエです。

 おそらく、時間もなく、予備調査もできず、少しだけタレ流しに対する甘えもあったのでしょう。

 そもそも、原作が売れ、映画化され、その後でテレビ化という流れに無理があったのでしょうね。

 キャスト等、豪華さでは映画にかなわない。(実はわたしは映画よりテレビのほうがキャストに好感が持てました)
 
 だから、キャッチフレーズが「誰も見たことのない犯人」になってしまい、脚本に無理が出たのです。

 次に映画版を観ました。



 最近は、ガリレオに影響された、いえ、実際はそれ以前からそうなのでしょうが、原作を無視して、ヒーローを長身・イケメンにする傾向が強いように思えます。

 そして重要人物のうち、どちらかを女性にする。

 バチスタでも、原作の白鳥は、小太り・短躯ですが、映画では 長身痩躯の阿部寛ですし、主人公、狂言回しの田口講師は女性化しました。

 そのことに関して、文句はありません。

 かえって新鮮で良いと思います。

 きちんと物語を知りたければ、原作を読めば良いのですから。

 ただ、なんだか無意味なプロローグ(白鳥登場の)とエピローグのソフトボールのシーンに納得がいきませんでした。

 原作がラストで鮮やかに立ち上がるのは、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)だった、白鳥が残す手紙が端正で礼儀正しいものだからです。

 小説を書く者にとって、あの一文は「やられたぁ」と思うのですね。

 そして、白鳥という人物の深さを改めて知ることになる。

 まあ、原作では、その後の「ナイチンゲール~」「ジェネラル~」「イノセントゲリラ~」で、白鳥があまり深くない人物だと露呈(ろてい)されてしまうのですが(実は、調子にのって、4冊イッキに読んでしまいました)。



 原作に関しては、特に書くことはありません。

 ただ、ああいった、象牙の塔(って死語?)における、権謀術数(けんぼうじゅっすう:あー、あの首相に読ませたい)にまみれたハナシは、いまひとつ、わたしには合いませんでした。

 いま、世は未曾有(みぞう)の不況と、空前の健康ブームとも言われていますから、医学小説から某(なにがし)かの情報をくみ取りたい、と、人々が医者の書いた小説を読みたがるのはわかります。

 「読者にわかりやすく知識を与える」のも小説の役目だと思いますから。

 ならば、上記「権謀術数小説」も、人々へ権力闘争における身の処し方を教えているのでしょうか?

 その点では、海堂氏は少し人の動かし方に慣れていないように感じました。

 まあ、医者なんですからあたりまえでしょうが。

 おそらく、みなさん感じておられるように、現実社会に、3をインプットすれば、常に2をかけて6になって出てくるような単純な人は少なくはありませんが、そうでない人の方が多いのです。

 だから、人生に悩みはつきず、おかしみも面白みもダイゴミもある。

 ですが、作家は、そういった人間関係を小説にする時、どうしてもわかりやすくするために、単純化した配役を多くしてしまうのです。

 つまり、ステレオタイプの人物を増やしてしまう。

 上昇志向が強く、口が軽く、保守的で、オロカモノといった人物です。
 あるいは、自己中心的で、妬みそねみが強く、感情的。

 そうすることで「人間関係に起伏ができる」という側面はあるのですが、全体に新鮮さと、しまりがなくなる危険があります。

 書く方からいえば、そういった、口の軽い愚か者を使って、物語を語らせ(つまりハナシを簡単に先に進めさせ)、もっと嫌らしく書けば、ページをかせぐことができる。

 怖ろしいのは(書く側からみて)、ストーリーをどんどんススメるために、人を我田引水(がでんいんすい)に、都合よく動かしてしまうことです。

 前にどこかで書きましたが、敵、あるいは周りの人物の愚かさによって、主人公に勝利させてはいけません。

 犯人もスゴイ、周りもスゴイ、その中であがいて、流れ星をつかむような僥倖(ぎょうこう)に救われて、やっと主人公が勝つ。

 物語は、そうあって欲しいのですね。

 自分にはできないことなので、つい、他の作家たちに期待してしまいます。

 「特にない」といいながら、もうひとつ書いてしまいますが、主人公田口の性格が良く見えないのも気になります。

 どうして、ああいった、人生を斜(はす)に構え、研究を嫌がり出世を拒む、しかしながら医学(大学病院)に執着する性格ができたのか。

 その説明が為されていません。

 伏線なのか、とも思いましたが、続編を読んでも、はっきりした説明がないので、そうではなさそうです。

 が、書き手として分析すれば簡単です。

 主人公は作者の分身。まして処女作ならば、まったく作家の身替わりといっていい。

 つまり、海堂氏の経歴と経験が田口公平の生い立ちです。

 願わくば、それを少し脚色して、小説中に書き出して欲しいものです。

 主人公のよりどころがわからないと読者は安定しませんから。

 あと、これは好みの問題でしょうが、海堂氏の文章は少し読みにくい。

 体言止めと逆接を多用(って、小林秀雄じゃないでしょうに)し、ちょっと女性的なメタファー(隠喩)が多いので、ちょっとわたしのセンスとは合わないのですね。

 こういった表現上のクセは、「このミス」選評でも書かれていましたが、今後、書き続けることで、改善はされていくでしょう。
 
 と思ったのですが、その傾向は、続編、続続編と続くにしたがって、ひどくなっています。

 おそらく、書くために費やした時間が短くなっているのでしょうが、やはり無名の新人が受賞を目指して練った「バチスタ」と、他の続編群では密度が違うような気がします。

 もともと 海堂氏は、院内における死亡時病理解剖を推進させるのが目的で、「バチスタ」を書いたのだと聞いています。

 だからなのか、続編の「ナイチンゲールの沈黙」では焦点でもブレを感じました。



 犯行方法とそのアリバイ、そして犯行後の犯人の心理状態にも、かなり疑問が残ります。

 長くなり過ぎました。続きはまた別項で書きます。

読むより書くべし

 曲がりなりにも自分で小説を書くようになると、他人の書いたストーリーが違って見えてきます。

 小説技法については、いずれ新しく場所を作って書いていこうと考えていますので、ここでは一つだけ書きましょう。

 自己満足だけでなく、人に読ませるつもりで書く小説に、もっとも必要なものは何か皆さんご存じですか?

 キレイゴトを言えば、それは人それぞれで、ひとつに決められるものではないから、そんなものは存在しないはずです。

 しかし、読書の専門家に読んでもらう、つまり新人賞などの文学賞を狙うなら、絶対に必要なもの、そしてやってはいけないことが確かにあるのです。

 必要なものは「オリジナリティ」です、

 そして、やってはいけないのは、ひとのプロットの模倣です。二番煎じといってもいい。

 一次選考員に「これはどこかで読んだことがある」と思われたら、あっさりと一次落ちになります。

 向こうは、とにかく「落とす理由」を捜しているのですから。

 だから、名のない作者はとにかく大量に本を読まねばなりません。

 ああ、もちろん、これは一般論で、若い作者が感性で書いた本が(多くは出版社の話題作りという思惑によって)芥川賞をとることはある。(絶対に直木賞は取れませんが)

 いったんそういったルートに乗った作者は、次回作から編集者がサポートして二番煎じを避けることができるので、あまり問題はないのです。

 問題は、フロックで新人賞をとった場合です。これはつらい。

 小さな賞では、編集者のサポートなどはロクに受けられないから、受賞作以降、書くもの書くものが全て二番煎じになる可能性がある。

 もちろん、編集者は、そんなハナシを雑誌には掲載しない。

 さらに、そういった新人は、大量に書く素地ができていないために、ほぼ数年後には消えていきます。
 毎年、数多く排出される新人賞受賞者のほとんどが消えていくのはこのためです。

 話が横にそれましたが、とにかく小説を書こうと志す者は大量に小説を読み続けなければならないのです。

 オリジナリティを出すために。

 少しでも多く読んで、それらと違う話をつくらなければならない。

 昔、どこかで影響を受けた、そのままをストーリーにして書いても絶対に認められません。

 しかし、こういった行為は、実のところ、自分で自分の首を絞める行為でもあります。

 「日の下(もと)に新しきものなし」

 完全オリジナルなものなど、西暦も2000年になった昨今ではほとんど無いからです。

 だから、読めば読むほど書けなくなる。

 そうなると、なにも知らずに、1から10まで影響を受けたコミックや小説を指摘できるようなハナシを書いている高校生たちが、本当に羨ましくなります。

 しかし、それを知った上で、新しいハナシを書けるようにならなければ、いつまでも殻を破ることはできません。

 その意味で、映画「私家版」はイタイ話です。まあ、これについては、また別に書きます。

 それでも、大量に読み、自分で書くと良いことがあります。

 楽器を弾く人は、同じ音楽を聴いても弾けない人と違う反応を示します。

 それは、その人が、その音の出し方の難しさ、楽しさ、肉体的感覚を持っているからです。

 小説もしかり。

 冒頭に書いたように、一度でもオリジナル・ストーリーを書くと、他人の作品を違う角度で読めるようになるのです。

 同時に、今、読んでいる作品が、あえて難しいストーリー展開をとらず、自分自身、何度か陥りそうになった安易な方向に進んでしまうと大変がっかりしてしまいます。

 これは、おそらくマンガを描く人が、他人のマンガを読んで感じることと同じなのでしょう。

 だからこそ、小説の好きな人にわたしは、自分で書いてみることをすすめるようにしています。

 本を100冊読むより、原稿用紙20枚の作品をひとつ書く方が世界が開けてみえるものだから。

ブンピツ失格 よくわからない太宰人気

  来年、生誕100年を迎える太宰治が人気だそうな。
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 そういえば、本屋などでも、集英社文庫が「あの」小畑健のイラストに変えて売り出していますね。

 あ、今回は昨今の太宰人気について書こうと思っています。
 文学談話に肌の合わない人は、読み飛ばしてください。

 調べればすぐにわかりますが、太宰について少しおさらいしておくと、
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 太宰治(1909-1948)
 本名:津島修治
 青森県の大地主の六男坊に生まれ、坂口安吾や織田作之助らと並び「無頼派」「新戯作派」と呼ばれる。
 48年に玉川上水(当時)に、女生とともに入水(じゅすい)自殺。今年が没後60年。

 そういや、太宰と織田作之助、オダサクはどちらも無頼派だったんだなぁ。
 かつて、わたしは大阪の千日前にいくと、よくオダサク行きつけの、そのテーブルで代表作「夫婦善哉」を執筆したという「自由軒」で、ライスもルゥも卵も最初っから混ざっている「オダサクカレー」を食べていました。
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 「自由軒」は、いかにも安っぽい大衆食堂といった体(てい)で、近所のオッチャンらしき客層も、クッションの悪いパイプ椅子も気に入っていたのです。値段も安かった。
 しかし、ある時期から、何を勘違いしたのか店がどんどん値段をつり上げ、オダサクブランドを全面に押し出すようになると、客層も、オッチャン連中から着飾った女の子、そんな子をつれた気取りニイチャンに移り変わって、自然に行かなくなりました。
 最近では、驚くべきことに店の前に行列までできているようです。

 あいかん、いつのまにか「昔は良かった」「あの店もダメになった」モードに入ってしまっている……

 さてさて、太宰治。
 告白すると、わたしは子供の頃から太宰が苦手でした。

「コレクライ読んでおかねばナラヌ」と、一所懸命に「斜陽」や「人間失格」などの代表作は読んでみたものの、冒頭の「お母様がスプーンをトリの羽のようにヒラリヒラリと使われる」なんて書き方でもうダメ。合わないんだなぁ。

 芥川なんかだと、あの、ぱっとしない片田舎で、冬枯れのすすけて抑圧された風景のもと、そろって背の低い冴えない子供たちに向けて、列車にのって奉公に出る凡庸な容姿の娘が、愛情を込めて投げる蜜柑が、きらめくように宙を舞い、その軌跡が灰色の退屈な世界すべての印象を一瞬にして鮮やかな色彩に反転させ、読む者に、めまいに似た感動を喚起させる名作「蜜柑」をはじめとして、いわゆる箱庭的小説技法が自分の気持ちにぴったりハマって結構好きなのですが。

 どうせシンコクぶるなら、政変のあおりを食って、実際に死刑直前までいったドストエフスキーの作品群の方がはるかに好ましい。
 机上でコネコネとジンセイを弄(もてあそ)んで紡いだハナシより、極限状態を経験した作家のストーリーの方が、はるかにきりりとして重みがある。
 「悪霊」なんて、一時期わたしのバイブルでもありました。カラマゾフはダメだったが。

 しかしながら、日本において、太宰は、生前から没後60年にいたるまで、つねに人気のある作家だったと思います。

 わたしは直接には知りませんが、昭和40年くらいまでは、酔えば太宰を暗証したブンガク青年なんかも多かったそうですね。

 そういえば、いまも中学の教科書には、芥川の「蜘蛛の糸」は載ってないけど、太宰の「走れメロス」は載っているなぁ。

 でね、ステロタイプですみませんが、新聞に「なぜいま、太宰なのか?」なんて記事が載るわけです。

 同時に人気の上がっている小林多喜二の「蟹工船」だったら、まあ人気の理由はすぐにわかりますが太宰人気はなぜなんだろう、と?

 すると、大学の近代文学の准教授が答えるんです。

「(太宰の小説が)現代のネット社会の孤独を体現し、周囲の人々とコミュニケーションを取りづらい若者の気持ちを代弁しているのではないか」

 うーむ。おえらい学者サマの意見に口をはさむ気はないが、なんか違う気がしますねぇ。

 皆さんはどう思いますか?

 「ネット社会の孤独」「周囲とのディスコミュニケーション」なんて、手垢のついたソレらしい単語を並べるだけで新聞に載るなんてイイ商売ですねえ。

 まあ、わたしも経験がありますが、マスコミへの発言は、結構記者が勝手に手を入れてしまうので、丸のまま信用はできませんが。
 
 しかし、「ネット社会の孤独」ってなんだろう。わからないなぁ。少なくとも、この文脈で使う理由がわからない。

 わたしは、個人的に、彼が処女作「晩年」の冒頭作品「葉」のエピグラフとして掲げた、ヴェルレーヌの「叡智」からの抜粋である「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり 」に代表される、劣等感の裏返しとしての過度な自尊心、理由無き(まあ、太宰は金持ちの息子でしたが)選民思想、そして、働かず実家からの仕送りで口に糊(のり)しながら、世界を批判する、生活無能力者の太宰の主人公が、今の若者の気分にオーバーラップさせやすいのが人気の原因ではないかと思っています。

 もちろん、先に書いた没後60年、生誕100年というイベント性、小畑鍵によるイラスト広告や今年3月、三鷹にオープンした「太宰治文学サロン」など、上からの企画が功を奏していることもあるでしょう。

 ともかく来年は生誕100年。

 太宰の生地である五所川原市では6月に記念フォーラムやマラソン大会(って、青ビョウタンのダザイとはまったく相容れない企画じゃないの?)も予定されているようですし、太宰が新婚時代を過ごした甲府市の山梨県立文学館でも企画展が開かれ、映画の制作企画も立ち上がっています。

 太宰人気はまだまだ続くんでしょうねぇ。

最後に。
 お叱りは覚悟で書きますが、わたしは太宰がシンコクな顔で写っている写真を見ると、なぜか笑ってしまいます。
 ああいった、*「小人閑居して不善を為す」(日本で用いられる誤用の方の意)タイプの、部屋にこもって、世の苦悩を一身に受けているような自意識過剰の人間は、客観的にみるといっそ滑稽ですから。

 チナミに、ご存知の方も多いでしょうか、『大学』にある「小人閒居して不善を為す」(閒の字が上とは違います)の本当の意味は、「中身のくだらない人間は一人でいると(人が見てないと)悪いことをする」というものですね。
 日本では誤用が広まってしまっていますが、本当はそうです。

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