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俺を越えていけ!いや、ホントはやめて欲しい ~師弟の亀裂~

 今日は、タイトルにあるように、師と弟子の亀裂について話そうと思います。

 師と弟子といえば、有名なのは誰と誰でしょう。

 わたしのような凡夫にとって、すぐに思い浮かぶのは、プラトンとアリストテレスでしょうか。



 二人の出会いは、アリストテレスが17歳で、プラトンのアカデメイアに入学した時です。

 この時プラトン60歳。

 貴族の子息プラトンは、マケドニア王従医の息子アリストテレスの才能を評価し、アリストテレスは、学生として、後に教師としてプラトンの没するまでアカデメイアにとどまりました。

 しかし、ふたりの考え方は徐々に違っていきます。

 対話によって真実を追究していく「弁証論」を方法論としたプラトンに対して、アリストテレスは、経験的事象を元に「演繹的」に真実を導き出す「分析論」を採り……

 実在観も、プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとしましたが、アリストテレスは、感覚で捉えられ、「形相が質料と不可分に結びついた個物」が実在であるとしました。

 つまり、最後には、相容れないほど違ってしまったのですね。



 あるいは、日本でいえば法然と親鸞。

 彼らの年齢差は40歳。

 親鸞は、法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意します。

 「綽空」(しゃっくう)の名を与えられた親鸞は、しだいに法然に評価されるようになり……
 その後、1207年に、後鳥羽上皇の怒りに触れ、師弟ともに、別な場所に配流(はいる)されます。

 1211年に罪をとかれ、翌12年法然が入滅(死亡)。

 法然の浄土宗と、親鸞の浄土真宗の教えの違いについては、ここでは書きませんが、これも師弟が行く道を、大まかな向きは同じでも微妙に違えてしまった例ではないかと思います。


 まあしかし、これまでの例は、古代ギリシアであり、日本のはなしであったため、それほど苛烈ではないように思えます。


 さて、そこで、いよいよハイデガーの登場です。

 人によって違いはあるでしょうが、二十世紀に限定して、すぐに思いつく哲学者をひとりあげなさい、といわれたら、ハイデガーをあげる人が多いのではないかと思います。

 ハイデガーの哲学については、ここでは触れません。

 かつて、そのハイデガーが「誰の本を一番読むか?」と尋ねられ、

 「マルティン・ハイデガー(つまり自分)の本だ」

と答えた逸話が残っています。 

 これを、たとえ自分の考えでも、振り返って復習しないと定義がおろそかになってしまうから、常に温故知新、自分の基本の考えに戻るエライ人、などと短絡的に考えてはいけません。


 それは、どういうことか?


 ハイデガーは、現象学の創始者フッサールのもとで学びました。

 フッサールは彼を高く評価し、自分の定年にあたり、フライブルク大学の後任教授にハイデガーを推すほどでしたが、やがて二人の仲に亀裂が入ります。

 ナチスに接近するハイデガーは、時流に乗って大学の総長に就任しますが、ユダヤ系のフッサールは公職追放の憂き目にあい――

 この時、ハイデガーは、「師の苦境を和らげる行動を一切とらなかった」といわれているのですね。

 フッサールは、この時の裏切りを、

「私の存在の根本を突き崩した」

と自著の中で述懐するほどですから、いかに弟子が師を傷つけたかが分かります。

 後に、ハイデガーは、ナチスを思想的に自分の思い通りに動かせそうにないと分かって、徐々に距離を置くようになりますが、戦後は、ナチス協力者として、かなりの批判を受けるのです。


 ここで、さきの「自分の本を一番多く読む」話に戻ります。

 つまり、ハイデガーという人は、過去の自分が「今よりも無知」で、「間違っていた」ことを認めることができなかったコドモであったのではないかということです。

 だから、いつでも昔の自著を読み返し、感動し納得できるのではないでしょうか。
 
  そういったコドモの部分が、完全な自分の、完全であるはずの師フッサールに手をさしのべることをためらわせたのではないでしょうか。


 岩波書店「師弟のまじわり」(ジョージ・スタイナー著)の内容で、わたしはそんなふうに感じたのです。

いい奴ほど先に逝く ~オレンジ:日隅一雄氏追悼~

戦場で死なないために、どうすれば良いと思いますか?

以前に、自分の作品で使うために、いろいろ集めたことがあります。

いわゆる、死亡フラグの立つ条件、というやつですね。

 ほとんど冗談の域ですが、案外、現実的にもありそうだな、というのが並んでいます。

 いくつか列挙しましょう。

・故郷の話をしない
・恋人の写真を仲間に見せない。
・将来の夢を語らない
・出撃前に恋人にプレゼントを渡さない
・手紙も渡さない
・指輪なんて論外、死にたいのか
・息子や恋人がくれたお守りを持たない

さらに――以下の言葉を決していわない。
・「やれやれ、助かったな」
・「大丈夫だ」
・「先に行ってくれ」
・「後から必ず行く」
・「すぐに戻る」
・「やったか!?」はNGワード。

 そして、冗談みたいな上の条件以上に、本当に、現実的な死亡フラグ(と、よんでいいのか)が存在します。

 かなり高確率の傾向で、

 「いいやつほど先に逝く」

という法則があるのですね。


 弁護士の護士の日隅一雄(ひずみ・かずお)氏が、去る12日に亡くなりなりました。
 享年49歳。


 遅ればせながら、彼への追悼を述べたいと思います。


 日隅一雄、1963年生まれ。
 京都大学法学部を卒業後、サンケイ新聞社を経て、弁護士に。
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東京新聞より

 わたしが彼を知ったのは、おそらく多くの方同様、昨年の東日本大震災による福島第一原子力発電所事故の際に、連日、というか、ほぼ泊まり込みで会見に望み、2011年4月4日深夜には、(貧乏なため日隅氏が助けていたらしい)木野龍逸氏と共に、「放射能汚染水1万トンの海洋投棄の責任者は武藤(ムトゥ)栄副社長だ」という言質(げんち)を東電広報からとったシーンを、連日視聴していたニコニコ生放送で観てからです。

 その時着ていたウインドブレーカーの色より、ニコニコ視聴者から、「オレンジ」の愛称で呼ばれた彼は、自身でもその呼び名を気に入っていた、と言われています。


 以来、彼の出る番組をチェックし続けるうち、五月過ぎに、ある放送での、

「日隅さん、体調を崩されたそうで」
「なんか、力が入らないんだよね、と木野くんに言っていたら、トイレで真っ赤な血を流してしまったんです」
「大丈夫ですか?」
「しばらく会見には出られませんが、大丈夫です」

 という会話から、彼が、かなり重い病気に罹(かか)ったことを知りました。

 今になって、それが末期の胆嚢ガンであったことを知ったわけです。


 一般的に、ガンは十年足らずの時間をかけて、徐々に大きくなっていきます。
 
 であるなら、この、東電記者会見泊まり込み取材が、直接の病魔の原因ではないと思いますが、それでも、この無理がなければ、これほど急激な病状の悪化はなかったと思うのです。

 今も、ニコニコに残っていると思いますが、この取材は、彼にとっては戦場でした。



 そこで、先の言葉です。

 戦場では、「いい奴ほど先に逝く」

 だから、日隅氏は、先に逝ってしまった。

 悪い奴は残っているのに。


 わたしなどは、こと志とは異なり、周りの人間多くに迷惑をかけて生きていますから、「先に逝く」ほど「いい奴」ではないとは思うのですが――

 ああ、戦場では、もうひとつ死ぬ条件がありますね。
 これもかなり高確率で真理です。

 それは、

「運の悪い奴は先に死ぬ」

 これなら、わたしも当てはまりそうですがね。


 とにかく、戦場を、華々しく一騎駆けして散ってしまった日隅一雄氏のご冥福をおいのりします。

 個人的には、地味でも良いから、ゆっくりと生きて欲しい人でありました。


p.s.
 もちろん、彼も完璧な人間ではありません。

 長らく民主党を応援し、民主党になれば、多くの問題が解決するとの意見を主張したものの、管政権以降は政府批判を強めるも、以前の政権擁護については発言がないなどと、批判を受けることもありました。

 個人的には、イイワケするより、行動で示したほうがよい、というのが彼の考えであったのだと思うのですね。

に、なれなかった人たち

 世の中には、~になれなかった人、というのが結構いますね。

 たとえば、有名ドコロでいえば、ビートルズになれなかった男、ピート・ベストです。
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 彼は最初のメンバーで二年間ドラムを担当していました。
 しかし、デビュー直前にクビを言いわたされて……
 そして、代わりは、なぜかあのオンチでリズム感並以下のリンゴ・スター。

 まだ存命中の彼は、クビになった理由を話したがりませんが、当時売り出してくれた敏腕プロデューサーが、32歳の若さで謎の死を遂げているのも、ちょっと気になりますね(暗殺説もある)。

 昨年だったか、リバプール郊外の新設道路に、彼の名を冠した「PETE BEST DRIVE」が新設されて話題になりました。

 彼が一番大物でしょうか?


 次は、クイーンになれなかった男、ティム・スタッフェル。

 クイーンは、もともと1968年に結成された「スマイル」というバンドでした。

 ドラムのロジャー・テイラーとギタリストのブライアン・メイは、創設当時すでにメンバーとなっていましたが、そこへ加入したのがティム・スタッフェル(ベース、ボーカル)でした。

 ところが、何があったのか、1970年に彼はスマイルを抜けてしまいます。

 彼が抜けたあとで、フレディ・マーキュリー、ついでロジャー・デーコンが加入し、クイーンが誕生するのです。

 こうしてみると、彼の場合は、~になれなかった男としては、ちょっと不完全ですね。


 あと、珍しいところでは、女性グループで、キャンディーズになれなかった女、太田裕美!
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この写真はこちらのサイトから転載させていただきました。

 スクールメイツの優秀生8人がキャンディーズ応募したものの、もとから仲のよかった三人がメンバーになり、太田女史は落ちてしまったのですね。

 あと、SMAPの場合は、~をやめてしまった人、森 且行氏がいますね。

 そして、昨日(2012.6.28)、ドリフターズになれなかった(ならなかった)男、小野ヤスシ氏が腎盂(じんう)癌のため亡くなりました。

 彼は、ドリフの前身である「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」のメンバーでした。

 桜井輝夫の脱退後、リーダーの座を譲られた、いかりや長介と対立し脱退したのは有名ですね。

 しかし、バラエティに役者にと、忙しく過ごした人生は、決して、ドリフになれなかった男ではなく、充実したものであったと思います。

 って、だからドリフに「なれなかった」んじゃなくて「ならなかった」の!

 なれなかったのは「すわ 親治」氏ですからね。


 享年72歳。ご冥福をお祈りします。

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