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その人は美しく、お節介、健気でおきゃんな役の似合う人だった ~淡島千景死す

 このところ、わたしが楽しみにしているものの一つに、BSプレミアムで放送されている、「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」があります。

「楢山節考」(当然、1958年制作の木下啓介版)などの有名ドコロはともかく、今回紹介する、「本日休診」(1952年渋谷実監督)のような、こういったきっかけがない限り、わたしのような凡俗の人間が観るはずのない映画を、選んで放映してくれるのが嬉しいのです。

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 「本日休診」は、昨今の韓国ドラマのような「劇的な展開」はなく、ただ淡々と、「戦後日本の貧乏生活を、老齢にさしかかった医者の目を通して描く佳作です。

 ドラマティックな展開はない、と書きましたが、それでいて退屈することがない。
 これは名作の本質です。

 貧乏で貧相で貧しく(って、みんな同じ意味ですが)、世知辛く、もの悲しい景色が、モノクロ映像を通じて描かれると、一種、つるりとした硬質の美しさをもって胸に迫ってくる。

 貧乏長屋のドブ板すら、なんだか妙にきれいに見える。

 息子を戦地で亡くし、甥を後継者にして、戦後に医院を再開した老医師が、再開一周年を迎えて、医院を休みにし「本日休診」の札を掲げるところから物語は始まります(昭和27年:晩年悪役の多かった柳永二郎が素晴らしい)。

 そこへ、戦争で頭がおかしくなった男(今で言うPTSDですか)、警察、チンピラ・ヤクザ、大阪から上京するなり暴行される少女、無一文の盲腸患者、兄の金のために権力者に身体を委ねる女性などが、次から次へと登場する悲喜劇、というのが「本日休診」のあらすじです。

 しかし、その登場する役者が何とも豪華。

 男の意地で小指を落とすから麻酔をしてくれ(という時点でチンピラというのがわかります)という小悪党が、すっきりとした二枚目の鶴田浩二!

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 脇役の脇役、ちょっとだけ顔を見せる医院に務める看護婦が岸恵子(わたしには、どうにも、この人が美しいとは思えないのですが……)。

 ダチ公である無一文の盲腸患者を入院させ、本日休診で人手が足りない、という医師に「戦時中、俺は衛生兵だったから外科手術は手伝えるぜ」と言い切り、金を払いたくないばかりに、最後には、ロープで二階の入院部屋から友だちと脱出するセコい男に、なんだか悪い面がまえの多々良純(って、若い人はしらないかな)。

 貧乏ながらも真っ直ぐに育ち、暴行された女性を好きになる好青年を演じるのが、佐田啓二。

 戦争の後遺症で精神異常をきたし、未だ戦地にいると勘違いして、道往く人すべてに、敬礼、整列を要求する男に三國連太郎!

 この三國に対する、まわりの人々の接し方がいい。
 皆が優しく彼につきあってやるのだ。

 そこには、彼こそが、「あの」まだ傷跡も記憶も生々しい戦争の被害者なのだ、という、共通意識があるからでしょう。

 なんとなく、サンダンスで賞をとった「この森で、天使はバスを降りた」を思い出しました(彼はベトナムの被害者でしたが)。

 三國の行動は滑稽で、それにつきあう人々の行動も、一見バカバカしく見えますが、そこには、ユーモアとペーソスが確かに息づいています。

 観ていて涙が出てくる。

 あ、自分で書いて、気づきましたが、最近、『ペーソス』という言葉を耳にしませんね。

 アイデンティティだのリビドーだのといった「自分中心の言葉」は、よく聞きますが、アイロニーだとかペーソスといった心のヒダを表す単語……ああエレジィも聞かないな。

 ご存じのように、ペーソスとはPATHOS、倫理社会などではパトスと習いますね。

 日本語では「もの悲しい情緒」と訳されることが多い。

 ユーモア(本来この発音なのに、英国ではいつのまにか、Hを発音してヒューマーだって!)とは正反対(マギャクっていう、お笑い芸人から広まったバカ語は使いたくないねぇ。ま、どうせ定着するだろうけどさ)の言葉です。

 ユーモアとペーソス、かつて、人情喜劇映画の紹介に、かならず使われたこの言葉は、今や、ほぼ死語となってしまいました。

 おもろうて やがて かなしき うかいかな

 というような、しみじみとした、もの悲しさより、ガイコク風の「うぇーん、わーん、ぎゃー」と叫ぶ爆発的感情表現(あーいやだ)の方が現在の日本人には合うらしい……

 そんな日本人いらねぇよ。

 仕事もせず、妹に金を頼って、バクチに精出すダメ兄に、旧版「白い巨塔」の東教授役でおなじみの中村伸郎。この人は、年をとってからの「超インテリ役」しか知らなかったので、この映画における貧乏な長屋のダメ兄貴ってのが、なんとも新鮮でした。

 そして、そして、そして……兄の金のために、鶴田浩二という恋人がいながら、闇屋らしき権力者の男に身を任せ、あげく妊娠し、その子がお腹で死んでしまったために、つねに貧血とめまいに襲われている娘役を、美しくきれいで、眉目秀麗で、すっきりとした立ち姿で、えーい、私の貧相なボキャブラリでは表現できないが、その上、お節介で、おきゃんで清潔な性格が、ぴったりと似合う淡島千景が演じています。

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 特にわたしが好きなのは、「君の名は」(もちろんオリジナル。リメイクがあるそうですが、わたしは知りません)で、主演の岸恵子演じる真知子の友人、美しく、きれいで、眉目……もういいって?そしておきゃんで、気っ風がよくて、さっぱりとして、優しくて、何事にも負けない魂の力強さを感じさせる(岸恵子演じるマチコとは正反対の)水商売の女性、綾ですねぇ。

 そうそう、「君の名」は、もそうですが、この「本日休診」も、出てくる若い女性は、ほぼ全て美しい。

 さすが、「映画女優みたいな」、という表現が生きていた時代です。

 いまみたいに「どこにでもいるおねーさん」や、「明日からわたしもテレビの向こう側に行けるかも、だって、あの人よりわたしの方が……」なんて、間違っても思えない人々が登場していた銀幕なんですから。

――ほぼ……「すべて」うつくしい女性が出ている、と言えないのは、岸恵子のオタフク顔が、時折、画面に映るからです。残念だなぁ。

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わたしは、女性の値打ちは美醜にはないと信じる者ですが、同時に、昭和二十年代の映画女優の値打ちは美しさにアリ、と固く信じているのです。

 ま、彼女の人気は、その容姿でも演技でもなく、彼女がハラの中に持っている自意識の高さ、ガイコク好き、あげくガイジンと結婚していつのまにか国際通扱い、という、見識と生き方にあるのでしょうなぁ。

 そんなのに憧れるのはつまんねぇけどね。

 だったら、誰もやらない時期に赤毛パーマを貫いた淡谷のり子の方がずっとカッコいいや。

 閑話休題

 淡島千景が本日なくなりました。

 享年87歳。

 彼女は、戦中戦後と宝塚の娘役のトップスターとして活躍しました。

 その美しさ、凛々しさは、数度だけ演じた男性役を観た宝塚近郊に住んでいたある男が、彼女を主役にしたハナシを描きたくて仕方がなくなって、ついに漫画に描いてしまったあげく、それをアニメにしてしまったほどです。

 仕方ないよなぁ、手塚治虫。

 あのくりくりした瞳と髪形を見たら「リボンの騎士」を描いてしまうよなぁ。

 その後も、モリシゲと組んだ夫婦善哉、駅前・社長シリーズでは、やっぱり色っぽくおきゃんな芸者を演じ、コメディエンヌとしての才能を開花、そのスゴさは、美しさと芸風にあやかりたいと、淡路恵子やホシュピタルの扇千景が、名前の一字をもらって芸名にしてしまったほどです。

 上記、名前をもらったバカ役者と違い、かつがれてホシュピタル政治家になることもなく、いち女優として一生を過ごされ、晩年も、つい最近まで日本俳優連合名誉副会長を務められました。

 美人薄命を返上する、太く長い生き方は、まことに見事。

 ま、岸恵子が、まだ生きてるのはわかりますけどね。

 最後に、彼女の芸名のもととなったとされている、小倉百人一首、源兼昌が一首を……

 淡路島 かよふ千鳥の なく声に いく夜ね覚めぬ 須磨の関守

 長い間おつかれさまでした。元気にお眠りください。

P.S.
 面白かったのは、放送前後に作品を紹介するコーナーで、映画監督の山本普也氏が、プレビュー映像を観ながら、お約束の「ほら、この岸恵子さんの美しさ」というのに応えて、相手役の小野文惠アナウンサーが、ちょっとつまりながら、「……お、お若いですねぇ」と言ったことです。

 彼女は正直なのだなぁ。お約束のお追従ができなかった……

P.P.S.
 読み返してみて、某ダイジョユーに対する態度が大人げないことに、あらためて気づきましたが……なにせ、愛する、藤沢周平の「たそがれ清兵衛」に、まったく必要性がないのに、つまり原作に登場しないのに、物語の最後にしゃしゃり出てきて、さも大女優といった態度で、映画全部を台無しにしたのが許せなかったのですよ。

 もともと、ガイコクの男と結婚したあげくのエセ・フランス通をハナにかけたメダームぶりが好きではなかったのですが。

 その意味では監督も共犯です。

独占する歓びが人気の秘密 ~ゾンビランド~

 世の中には、一定数の「ゾンビに支配された世界が好き」な、人が存在するようだ。

 もちろん、その中には、ゾンビ自体が好き、という人もいるのだろうが、大部分はゾンビに支配された世界であるがゆえに、人間であり続ける自分がやりたい放題できることが好きなのではないだろうか。

 平常な世界では、誰かに腹が立ったとことで、彼を殺すわけにはいかない。だが、ゾンビ世界ではでは、危険と裏腹に、敵対する「人外のモノ」を、どんどん殺戮、排除していけるのだ。

 この点において、ゾンビ蔓延世界の好きな人は、世紀末(死語だね)崩壊世界が好きな人と一致するのかもしれない。

 さらに、物欲がゾンビ世界への憧れを加速する。

 ゾンビに支配された世界では、世の中にあるモノは奪い放題なのだ。ショーウインドウに飾られた高価な品物を奪ったところで、ゾンビたちは文句を言わない。

 その証拠に、ゾンビ映画で人気の高いものは(そうでないものも含めて、か?)、彼らから逃れる人々が、郊外の巨大なショッピング・モールに逃げ込む話が多い。

 そこでは、ガラス越しにノロノロと徘徊するゾンビを尻目に、人間たちは、溢れかえる物質(服、宝石、食べ物を含む)に囲まれ、ある意味、至福の時を過ごすのだ。

 A・ロメロ監督の金字塔的名作ゾンビを、「あの」ザック・スナイダー(エンジェルウォーズの)監督がリメイクした「ドーン オブ ザデッド(2004年)」も、メインとなる舞台は郊外の巨大ショッピング・モールであった。

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 余談だが、この冬に行ったワシントンDCの安ホテルで、唯一映るケーブルテレビの番組がサイファイチャンネルだった。

 そこでは、毎晩のように「ドーン オブ ザデッド」が再放送されていたため、じっくりと、この名作を観なおすことができて幸運だった。

 なぜ、冬にゾンビ映画特集をやっていたのかは疑問だったが……

 さて、今回、お話する「ゾンビランド」も、上の例にもれず、現実にはできない「憧れの場所での好き放題」シーンが用意されている。

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 主人公は、引きこもりがちの青年コロンバス。

 彼がゾンビランド(合衆国のことらしい)で、中年マッチョの男タラハシー(ウディ・ハレルソンが好演)と出会うところから話は始まる。

 サイト http://www.zombieland.jp/

 全く正反対の性格に見えるふたりの共通項は、共に人嫌いだということだった。

 わずかな人類の生き残りに、人間嫌嫌い、あるいは人間づきあい苦手なものが多いのは「容易に人を信じない」そのことこそが、ゾンビ蔓延社会で生きて行く、一番の方法である事を示唆しているのだ。

 青年は、故郷コロンバスに向かおうとし、タラハシーは、「自分はタラハシー(メキシコ)に行くつもりだから、途中までなら同行しよう」という。

 お気づきのように彼らの名前は本名ではない。本名を知ると情が湧いて、ゾンビ化した時に殺せなくなるから、お互いの目的地を渾名(あだな)にして呼び合っているのだ。

 そういえば、「ドーン オブ ザ デッド」のセカンド・コピーは「汝の愛するものを恐れよ」だった。(メイン・コピーは「感染するまで、終わらない」だ)

 これもまた変則ゾンビモノであった、ウイル・スミス主演の「アイ・アム・レジェンド」(かつて「地球最後の男」というタイトルで映画化されたSF作品のリメイク)では、愛犬サムがゾンビ化した際に撃ち殺すシーンに一番胸が痛んだ。

 つまり、愛する者を容易に失う環境で、人や動物を愛してはいけない、ということだ。
 もちろん、それは、ただの逃避に過ぎない。

 失うことを恐れて愛することを避けるのは、愚者の行いだ。

 愛してそれを失うのはその次に良い、のだから。

 やがて二人は、可愛い詐欺師姉妹と出会い、彼女たちに騙されつつも、珍道中を続け、彼女たちの目的地たる遊園地にたどり着く。

 その前に、あの名作ゴースト映画の主役が本名で登場するお遊びシーンなどもあって、まったく飽きさせることがない。

 さすがに、バイオハザード・シリーズを含む、すべてのゾンビ映画史上、最大の売り上げを記録しただけの事はある。

 そして、「自分たちのためだけに開いている遊園地」で、姉妹はアトラクションに乗り……ゾンビに囲まれる。

 ゾンビランドの白眉は、通常では貸し切りなどできない遊園地の独占にあるのだ。

 とにかく面白い。時間があれば、ご覧になることをオススメする。

 人が死に、ゾンビの頭がふっとび、血は流れ……しかし、なんだか楽しく、見終わって爽やかな気分になれる不思議な映画、それがゾンビランドなのだ。

愛し過ぎたことの罪?そして罰…… ~エンジェル ウオーズ~

「エンジェル ウォーズ」を観ました。

 監督は「300(スリーハンドレッド)」や、あの名作「ウオッチメン」を撮ったザック・スナイダーです。

 しかし、この作品……どういうんでしょうか。

 あらかじめ書いておくと、世間的な評価は低いようです。

 それというのも、戦闘シーンで使われるCG映像が、いかにもゲームの説明映像っぽいものだからです。

 しかし、この作品が持つ、真の問題点はそこではありません。

 今回はそれについて書こうと思います。

 いや、そもそも、はじめて予告を観た時から、「ヤバいんじゃないかなぁ」とは思っていたんですよ。

 だって、

 金髪のヘソだし『セーラー服』を着た少女が『日本刀』を持って、『仮想空間』らしき場所で、『ガスマスク風の強化服』を着た『ゾンビ』らしき化け物と闘う……

 という映像だったんですから。

 上記、二重カギカッコで書いた部分を読むだけで、分かる人なら、

「なんだこれは……まるで押井守の過去作品の寄せ集めじゃないの」

 と思ってしまう構成です。

 仮想空間映画「アヴァロン」、「アサルト・ガールズ」「攻殻機動隊」の電脳空間
 現実と夢の境のない「迷宮物件」

 セーラー服の少女が日本刀で闘う「BLOOD」

 ガスマスク風の強化服といえば、押井監督の初期の代表作「紅い眼鏡}

 もちろん、偶然の一致、などではありません。

 おそらく、ザック・スナイダーは、押井守監督の信奉者なのでしょう。

 スナイダー自身の弁によると、「この作品は、マシンガンを持った不思議の国のアリスである」とのことですが……

 うそうそ、大ウソ。

 この発言は、彼が、自分自身をも欺く大ウソつきであるか、しょせんはサブカルチャーにすぎない日本のアニメ監督の作品など大部分の欧米人は知らないだろうから、「その作品群から大きなインスパイアを受けたのだ」と説明する必要などないという『大人の判断』から、エエカッコ発言をしたという証明にすぎないでしょう。

 作品自体の内容は、というと、 

 1950年代、母を失った少女ベイビー・ドールは、遺産をねらう義父の策略によって、精神病院に収監され、五日後にロボトミー手術を受けることになる。

 我が身を守るため、彼女は、音楽をキーとして、精神世界に作りあげた仮想空間に潜り込み、5つのアイテムを手に入れ、精神病院から脱出をはかろうとする。

 なぁんて書いたところで、映画を観ていない人は、いったいどういう話なのだろう、と不思議に思われるに違いありません。

 ご心配には及びません。

 実際に映画を観ても、何がなんだか、さっぱりワカラナイんですから。

 この映画は、まったく自分勝手な論理の積み重ねを繰り返し、説明不足のまま、どんどんハナシを進めるという厨二病(ちゅうにびょう)的自己満足に満ち満ちた駄作なのです。

 いったい、どうすれば、ハリウッドの名のある映画監督が、こんな作品を撮るのだろう?

 もちろん、むりやり説明をつければ、なんとか解説することはできます。

 主人公は、精神病院で使用される、鎮静目的の薬物による幻覚・幻視に対抗するために、歌(音楽)を利用し、現実の世界を仮想世界に置き換えて、脱走に必要な道具を手に入れるのです……しかし、こう説明してしまうと実も蓋もないなぁ。

 が、まぁ、つまりはそういうことです。

 おそらくは、ザック・スナイダーは、押井守の作品群が好きなのでしょう。

 ただ好きなだけでなく、強烈に愛してしまった。

 愛し過ぎたあげく、自分自身で、その作品群を再構成して、ひとつの「サイコー」の作品にしたくなった。

 そして、実際にしてしまった。

 アクションシーンを、出来の悪い市販ゲーム風のCGにしてまで……

 たぶん、ザックに罪はないのでしょう。

 もし、彼に非があるとするならば、そういった、愛しすぎた作品の寄せ集め話に、自分好みの「陰鬱で救いようのない」バッド・エンディングをくっつけてしまったことです。

 バッド・エンディング――

 そう、この作品を観た人が口をそろえて言うように、「エンジェル ウォーズ」は、後味の悪い映画なのです。

 ヒラリー・スワンク主演の、ミリオンダラー・ベイビーのような。

 どうしようもない閉塞感と喪失感を伴うエンディング。

 だから、この映画を、精神ポテンシャルの低い(つまり意気消沈した)時に見ることはおすすめできません。

 ザック・スナイダーは、押井作品を愛しすぎるという罪を犯したあげく、最低の駄作をつくってしまうという罰を受けてしまった。

 日本の配給元のセンスも悪いよ。

 だいたい原題「Sucker Punch」(びっくらパンチ)がどうすれば、「エンジェルウォーズ」になるんですか?

 ああ、そういえば、女性の一人に天使の羽のようなモノが生えるシーンがあったなぁ。

 
 うーん。

 最後に、ロボトミー手術に関する、わかりやすい説明としては、島田荘司氏の小説「溺れる人魚」が詳しいので、興味があれば、ご一読されることをおすすめします。

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